インフォメーション
2017年8月30日(水)
2017年、革命100年のロシア音楽界事情 ―19世紀帝政ロシア作品への回帰
東京フィル特別客演指揮者ミハイル・プレトニョフ
©RNO
2017年はロシア革命100周年。ロシア音楽界では、音楽家同士の権力闘争に明け暮れたソ連時代を懐古するよりも、ロシア革命によって否定された帝政ロシアの音楽を改めて見つめ直す動きが顕著のようである。実際、例年なら西欧物で賑わうシーズン開幕プログラムが、ボリショイ劇場もマリインスキー劇場も今年は19世紀ロシア物を全面に出している。今回のプレトニョフの選曲も同様の傾向と言えよう。
ウクライナの作曲家グリンカ(1804-1857) の民謡旋律を用いた管弦楽曲(カマーリンスカヤ)に始まり、ポーランドの舞曲(クラコヴィアク)、現在のイスラム文化圏が舞台となっているボロディン(1833-1887) の交響詩(「中央アジアの草原にて」)、そして北ロシアの民話の世界に魅せられたリムスキー=コルサコフ (1844-1908)(歌劇『雪娘』『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』『皇帝サルタンの物語』各組曲とリャードフ(1855-1914)(交響詩『魔法にかけられた湖』『キキーモラ』『バーバ・ヤガー』)の師弟作曲家の傑作群。西ユーラシアの様々な地方のフォークロアを扱った芸術音楽の、さながら博覧会のようである。本稿ではこれらの曲が誕生するに至った背景を概観しよう。
ミハイル・グリンカ(1804-1857)
アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)
アナトーリ・リャードフ(1855-1914)
ニコライ・リムスキー=コルサコフ
(1844-1908)
駆け足・ロシア音楽史
今でこそ音楽大国と言われるロシアだが、実は歴史的には音楽後進国だった。五線譜が使われるようになったのはバッハが生まれる少し前の17世紀後半だったし、ピアノという楽器が正式に国内にもたらされたのは1802年、なんとベートーヴェンが月光ソナタを書いた後だった。18世紀後半のロシア帝国繁栄を支えた女帝エカテリーナ2世(1762~96在位)が大のイタリア音楽好きだったために、18世紀末までロシア宮廷楽長はガルッピ、パイジェッロ、チマローザといったイタリア人作曲家が務めていた。
西欧音楽が主流を占める傾向は19世紀後半まで続き、これに反旗を翻した自国の音楽家たちが「ロシア五人組」であり、「国民楽派」という流れだった。しかし20世紀に入って樹立した社会主義政権ソ連邦では、スラヴ民族の優越性を誇張したいがためにロシアに於ける西欧音楽の影響を全てカットして音楽史が編まれた。その結果、革命以前、特に18,19世紀のロシア音楽界の本当の姿は明かされぬまま、有名作曲家たちの有名作品が名前を連ねるだけの音楽史が世に出回っていた。フランシス・ マース著『ロシア音楽史』(2006邦訳出版)はその最たる例である。
19世紀ロシアは西欧一色?!
では、マースの著書で見落とされているロシア音楽界の実態とはどんなものだったのだろうか? 19世紀初頭のロシアではまだ公共の音楽会は殆ど開催されず、記録に残っている数少ない演奏会はどれも西欧の演奏家によるものだった。1812年のナポレオン戦争に勝利した後は、ロシア国内のナショナリズムが高揚するどころか、フランス革命によって貴族のパトロンを失った西欧から金持ち貴族の支配する北の大国ロシアへ芸術家たちが大挙して押し寄せ、ロシア音楽界は更に西欧化を強める事態となった。
演奏会やオペラ上演の回数を例に取れば、1800~1825年のモスクワとペテルブルグの全演奏会391回中、ロシア物の器楽・管弦楽の演奏会はゼロ。1800~1850年の歌劇初演総数277のうち、ロシア物は僅か29という有様だった。1862年にヴェルディの歌劇『運命の力』がロシア帝室劇場の依頼でペテルブルグで初演されたのは、ロシアに於ける空前のヴェルディ・ブームが背景にあった。この西欧偏重は1870年代末まで続いた。
ロシア人作曲家たちの"逆襲"
作曲家たちがインスピレーションを受けたという
ロシア西部の古都ノヴゴロドの風景
西欧音楽が氾濫する音楽界に自国の文化や伝統を広めようとする動きは1860年代から始まった。これには民話研究者アファナーシエフの『ロシア民話集』(1855~63刊行)の出現が切っ掛けの 一つとなった。音楽家たちは民謡引用を駆使して民話の世界を音楽で描こうと腐心した。やがて、農奴解放や長期に亘る露土戦争などの影響の下、文学や絵画の世界の動向と連動して、作曲家の中からも民謡引用に頼らずにロシア独特の世界観を音楽で表現する者が出てきた。ムソルグスキー『展覧会の絵』やチャイコフスキー『四季』はその先駆けである。
画家イヴァン・ビリービンによる
「バーバ・ヤガー」
時代はさらに下って19世紀末になると、ロシア民話の世界を独自の感性で視覚化した画家ビリービンの絵本が新たなインスピレーションを音楽家たちに与えることとなった。リムスキー=コルサコフの一連の民話オペラやリャードフの極彩色の管弦楽作品は、二人が過ごしたノヴゴロド県の湖水地方の神秘的な自然とビリービンの挿絵の世界とが融合して誕生したと言われている。
ロシア音楽界が西欧音楽に席巻された時代を知る1860年代以前生まれの作曲家たちは、チャイコフスキーも含めて一人の例外もなく、ロシア民話の世界による標題音楽を書いた。彼らの紡ぎ出す異国情緒溢れる音楽は、ディアギレフが主宰する芸術イベント「ロシア・シーズン」で20世紀初頭のパリに一大ブームを巻き起こすこととなる。プレトニョフの的確且つ簡潔な選曲によって、私たちは胎動期から自立するまでのロシアならではの芸術音楽の魅力を堪能することとなろう。
一柳 富美子(ひとつやなぎ・ふみこ)/音楽学
東京芸術大学講師。ロシア音楽研究の第一人者。ロシアオペラ・声楽・ピアニズムに特に造詣が深い。ロシア音楽研究会主宰。ロシアン・ピアノ・スクールin東京総合監修。研究・執筆、声楽指導、音楽通訳・翻訳・字幕を手掛け、邦訳した大曲だけでも50を超える。
ミハイル・プレトニョフ指揮 10月定期演奏会
プレトニョフのロシア便り
10月22日[日]15:00開演(14:30開場)
Bunkamura オーチャードホール
10月23日[月]19:00開演(18:30開場)
サントリーホール
指揮:ミハイル・プレトニョフ
グリンカ/幻想曲カマーリンスカヤ
グリンカ/幻想的ワルツ
グリンカ/歌劇『皇帝に捧げし命』より第2幕「クラコヴィアク」
ボロディン/交響詩『中央アジアの草原にて』
リャードフ/交響詩『魔法にかけられた湖』『キキーモラ』『バーバ・ヤガー』
(休憩)
リムスキー=コルサコフ/歌劇『雪娘』組曲
リムスキー=コルサコフ/歌劇『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』組曲
リムスキー=コルサコフ/歌劇『皇帝サルタンの物語』組曲
一夜限りの贈り物 プレトニョフのウィーン音楽
10月18日[水]19:00開演(18:30開場)
東京オペラシティ コンサートホール
指揮:ミハイル・プレトニョフ
メゾ・ソプラノ:小野美咲*
ハイドン/交響曲第49番『受難』
マーラー/亡き子をしのぶ歌*
(休憩)
シューベルト/交響曲第5番
シューベルト/交響曲第7番『未完成』