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2015年7月29日(水)

首席客演指揮者アンドレア・バッティストーニ、大人気テレビ番組『TED』出演!



翻訳

 皆さん、こんにちは。この場に皆さんといられる事を嬉しく思います。午前中の色々な討論を大変興味深く聴きました。今日の午後、皆さんと面と向かってお話できることを特に嬉しく思います。
 というのも普段、私はお客様のことを背中で感じているだけだからです(背中を向ける)。お客様はいつも背中越し、私が目線を交わすのは常に舞台上のオーケストラか歌手かなのです。ですから本日は背中を向けることから解放され、オペラやクラシック音楽のコンサートにあまり慣れていない方々から聞くことのある、壁のような存在、音楽の世界に対する垣根を打ち壊したいと思います。それから、私がここ数年の音楽家としての生活の中で育んだいくつかの考えを皆様と共有できたらと思います。そしてそれが音楽に身を捧げている人々、および音楽の普及のために貢献している人達だけでなく、より一般に、現代性や現在と、私たちの以前にあった偉大なる芸術文化、いわゆる今日「伝統」と呼ばれるものとの関係性に興味のある方達にとって役に立つものである事を願っています。私たちはみな、偉大なる巨人の肩に乗った小人のようなものなのです。私たちは未来を見つめなければいけませんが、私たちがどこから来たのか、過去に教えられて来たことの中の何が今日にも通用するのか、を見極めなければいけません。


 私はオーケストラ指揮者であり、私の音楽活動の場はもっぱら、私が嫌悪する『クラシック音楽』という言葉でラベルを貼られたジャンルです。この『クラシック音楽』という言葉は、特に若い世代の聴衆にある種の嫌悪を引き起こし、それは私にとっても同様です。『クラシック音楽』という言葉はそもそも不正確であり、直ちに博物館的なものを想起させ、事故にでもあったのか胸から上だけの像になってしまった上に少々埃をかぶっている、現代とは何の関係もない有名人達を想起させるのですが、何よりも今言った通り、用語として間違っています。本来『クラシック音楽』、つまり『古典音楽』とは音楽史の中でも1600年代の終わりから1700年代の終わりまでの限られた時代のことを指します。しかし現代において『クラシック音楽』は、教養音楽、もしくは芸術音楽、演奏会の音楽、つまり、交響曲、室内楽、そして『クラシック音楽』とはあまり関係のないオペラに至るまでを区別することなくごちゃまぜにぶち込んだ大鍋のように使われています。なのでこの言葉は確実に若者に気後れと恐怖を植えつけるのです。私は彼らと話したり自分と比較してみたりしてそのことに気付かされることが多いのです。そして皆さんの大多数の方にご経験があるのではないかと思いますが、
『クラシック音楽』と便宜上呼ぶ、この音楽へのアプローチには幼少時のトラウマがつきまとうことがとても多いのです。


 私は幸いにもクラシック音楽やオペラをよく聴き、それをとても重要なものとして扱う家庭に生まれました。母は私が2〜3歳の時には私をピアノの鍵盤で遊ばせていましたし、3〜4歳の時にはモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を聴かせていました。今になってみればおそらく私の母の幼児教育はいささか極端だったかと思いますが、その時にすぐ気付きはしなかったもののそれが私にとって財産であることは間違いありません。


 しかし、ここにいる大部分の方、一般のイタリア人にとっての初めてのクラシック音楽との出会いは、おそらく小学校の低学年でしょう。今この場をお借りしてイタリアの教育方式を批判したくはありません。何しろ私は、リコーダーの授業に異議を唱えて大半のイタリア人教師から総スカンを食らったことがありますから…(客席から拍手)音楽教師、特にイタリア人教師を誹謗する気はこれっぽっちもありません。イタリアの学校は経済的に困窮しているし、イタリアの先生たちは数多くの大変な困難に立ち向かっているのですから、時には唯一 入手可能なものがリコーダーであるというのは分かっているんです。ただこんな、イースターの卵から見つけたおもちゃような、プラスチックの欠片を使って演奏をするというのは、何と言いますか、ちょっと逆効果なんじゃないかと私は思うんです。


 そんなわけで『クラシック音楽』というのは多くの場合、子供達の頭に投げつけられる「文化」と大きく書いてあるレンガのようなもので、よく子供に「勉強しなければダメじゃないの、ダンテを読みなさい、さあ!」と一方的に投げつけるようなもので、その中に何か特別に豊かで大切なものや、パーソナリティーや、メッセージが含まれているとは、とても思われていないのです。


 イタリアではせっかくオペラや交響曲、室内楽の伝統があるにもかかわらず、その芸術の本質を若者に伝えるのが困難になっているようです。ですから私はこの音楽の普及を切実に訴える活動をしています。経済的危機のせいで学校のような教育機関が子供たちに音楽にアプローチする機会を与えるのに難儀している中、私たち演奏者が指揮台から降り、バリアを取り払ってお客さんの方に向きなおり、会話をし、私たちが大変魅力的で興味深いものであると考えているものの内容を伝える事、それを毎日勉強している私たちと皆様との共通点を探しながら伝えていく事は私たちの義務だと思うのです。


 私が良くやっている対話は、若者向けのクラシック音楽への入門のためのレクチャーで、それは自分のコンサートが開催される時にも行っており、嬉しい事に大変好評を得ていますが、そこでは私がすることを、私に耳を傾けている人の内面に結びつけるよう務めています。初めてコンサートホールに来た人にとっては、そこで我々が演奏しているベートーヴェンの交響曲が文化的歴史的にどういう位置にあるかetcはあまり興味が無いと思うのです。私が思うには、最初にはやはり、何世紀も前のこの曲が今に生きている自分に何を与えてくれる物なのか知りたいのではないかと思うのです。ですから、とりあえず皆様に音楽を少しお聴きいただき、その後でまた一緒にお話したいと思います。スタッフさん、お願いします。


(ベートーヴェンの交響曲第5番第一楽章の冒頭が流れる)


 ありがとうございます。おそらく皆様よくご存知でしょう。かの有名なベートーヴェンの第五番交響曲の冒頭部分です。この手の有名な曲は、名曲であるかそうでないかに関わらず、CMやらセント・バーナード犬が出ていた映画などで聴いたことがあるのではないかと思いますが、でもちょっと、なんだか『モナリザ』のような存在になってしまっている、そうお思いになりませんか?『モナリザ』を見て「あー、はいはい、これね。うちの冷蔵庫のマグネットのやつね。うんうん、綺麗だね。でもねー。」とでも言うような…。


 しかし、私はこの作品について以前若者たちと話したことがあるのですが、私の著書『年寄りのための音楽ではない』にも書いたように、この交響曲に込められているメッセージは、例えばAC/DCの歌などに匹敵するものなのです。それは私が特別に好きな曲なのですが、そう話した途端にすぐ彼らは理解してくれました。彼らが聴いているエレキ・ギターやドラムなどの音楽は私たち音楽と距離があるように思えますが、でも実際の所は、このグループの曲と、この(ベートーヴェンの)交響曲が伝えるメッセージはまったく同じものなのです。世紀を超えて、壁を超えて、私たちの心にダイレクトに届くのです。なぜなら皆様、お分かりですか、今私たちはちょっと合理的になった世の中で真実の対話をしづらくなっていて、なんというか、孤立しているんです。単子(モナド)のように。そんな中で、あなたの喜びは私の喜びだと、あなたの悲しみは私の悲しみだと、どうやって私は知ることが出来るのか?と思うのですが、音楽、いや全ての芸術もそうですが、音楽は特に、このプロセスに必要な物なのです。感動を共有しながら人間としてお互いを確かめ合うということは、ことに音楽においては特に強く、消えないものとして私たちの心に残ります。だからこそ1808年に書かれた交響曲が時を超え、まるで私たち自身のものであるかのように思えるメッセージを届けることができるのです。混乱したヨーロッパでのフランス革命の破綻、王政復古、民衆の間に膨らんだ緊張感、それら全てに対するベートーヴェンの怒りが、一つの交響曲の中に溢れています。皆さん、ちょっと思い出してください。1700年代の『クラシック音楽』は本来、この場合は用語の正しい使用となりますが、単に貴族の楽しみのために書かれた物でした。食事中のBGMにハイドンやモーツァルトの音楽を聴く、というような。そこにベートーヴェンが現れて、このシステムを覆したのです。彼は壁を飛び越えたわけではなく、まるで暴走する車か列車のように突破したのです。コンサートホールの扉を破って開け、感情的で並外れた怒りのエネルギーを、エリート主義や過去の偉人たちのセオリーからではなく、下層の市民の、道ばたで生まれた激情を持ち込んだのです。だからこそ、この音楽は、反乱の、そして個々への自由を強固に主張する讃歌であるかのように響くのです。それはまさに他のたくさんの、もっとポジティブで建設的なメッセージも含めて、現代のロックバンドやイタリア人シンガーソングライターの数々の歌の中にも見出されるものと同じではないでしょうか。こうしてベートーヴェンに対しては例の埃をかぶった胸像のようなイメージ、かつらをかぶったあの姿のイメージはもう抱かなくなるのではないでしょうか?彼は私たちに伝える事を持っている、非常にモダンな話し相手なのです。


 このようなことを伝えるという役目は、私たちのような今のクラシックの音楽家には少し難しいかもしれません。私たちはいささか、芸術的なルーティーンとでも言うべき檻に閉じ込められ、それはコンサートを聴きに来た人と対話するのを助けてはくれません。また、コンサートの形式そのものが、19世紀に定まった時から少しも変わっていないのです。ホールに入ったらオーケストラがいて、調弦して、静かになって、照明が消えて、指揮者が出てきて、コンサートマスターと握手して、もしかするとお客様の方に一礼して、そうでないのならそのまま、外にはポルシェが待っていて、とこれは私にはありませんが、そうする人もいるんですよ。そんな感じで演奏して終わり。音楽に込められたメッセージは知っていて当然、というような感じで。でも時代は変わってゆきます。私たちはインターネットの時代にいます。ユーチューブに行けば、一体何種類の音楽を聴くことができるでしょうか…昨日書かれたものから、そうですね、12世紀のジャワ音楽、ありとあらゆる伝統音楽まで、それはもう無限で混沌としています。時としてそれらの音楽は混ざり合って現代の奇妙な音楽となりますが、その全ての言語の意味を捉えることは容易ではありません。


 それゆえに私は、過去から来ている芸術文化に身を捧げている人は誰でも、それを他の人に伝えようと思ったら、大理石の台から降りて来て、自分が他の人よりもたくさん知っていようとも、その知識を自慢するべきではないと思うんです。好奇心を持って近づいてくる人がいても、その重要な芸術を提供する側との距離感にすぐにフラストレーションを覚えることになるからです。私は音楽について話をするのがとても好きです。もっともフランク・ザッパが、「音楽について話をするのは、建築について踊るようなものだ」という名言を残していて、音楽は、聴くか、奏でるか、そこに喜びを見出すためのものであるべきであるというのは真実です。でも私は、自分自身にも疑問を呈するのが好きですし、皆さんと対話をして、長い議論の末に考えを分かち合うのが好きなのです。70年代のロック・ミュージックや、アイルランドのフォーク音楽や、ワン・ダイレクションも… 古代の哲学者達が言った事をもじって言えば、「私は音楽家なので音楽は何でも私にとっては他人事ではない」のです。ですから私にとって今日の音楽事情は何でも興味があるのです。ところがクラシック音楽の話題になるととたんに、人々は敬して遠ざけるというか、「ああ、いや…私そんなに詳しくないので…。」とか、「そんなに…聴かないんですよ。」とか。一番ひどいのは「私は耳がないので」って。皆さん、耳をお持ちじゃないですか。音楽は私たちの中に流れるものです。今日の午前中、ずっとこの世のサイクルについて話をしていたじゃないですか。四季の中に、世界中のどこにでもリズムがあるんです。私たちの中にもリズムがあるんですよ。心臓が鳴ってるじゃないですか。もし耳がないとおっしゃるのなら、ヴェローナ方言とナポリ方言の違いだって分からないはずですよ。それが音楽を聞き分ける耳なんです。誰でも持ってるものなのです。ですから、21世紀の今、文化に携わる私たちの課題は、それを伝えること、私たちの目の前にいる、こちらに来ようとしている人たちの手を取ることなんです。今日私は皆様にご理解いただけるように手短かにお話しましたが、皆が分かち合えるエモーションについての比較をしてみせる事だと思うんです。


 昨日から今日へと繋がっている事、過去の偉大なる音楽なくしては今日我々の持つパノラマも存在しなかったのですから。難しいのは重々承知です。私自身も困難を感じています。でも私は私に出来る事をやっていきます。今日は私はここで皆様とお話していますが、数日後はいくつかの学校を訪れる予定があります。先ほどもお話した通り、私はコンサートでほとんどいつも曲目紹介をします。と言うのも、統計を取って調べたのですが、7割のお客さんは音楽学者の書いたプログラムを読まないのです。でも当然ですよね、上の方から「無知め!ヨハン・セバスチャン・バッハが何曲カンタータを書いたのか知らないなんて、恥を知れ!」と言わんばかりですからね。まあそれも1つの方法ではあると思いますが、私はそれがいいアプローチだとは思いません。私はこのテーマについて本を書きました。リッツォーリ社から出版された『年寄りのための音楽ではない』ですが、もし皆さんがご親切にも興味を持って読んで頂ければ嬉しいのですが、まさにこれからの時代の聴衆のために書きました。曲についてや、音楽の裏話などが書かれている文中に、QRコードを入れてありまして、携帯電話で読み取るとその曲の音源を聴いていただける仕組みになっています。


 観客にどうやって興味を持たせるか、それは第一のステップとしては感情面から、そして後にはより深遠な面に引き込む最良の方法を見つけ事は、アーティストや文化関係者の挑戦であり、その観客とは皆さんでもありますが、特に未来の聴衆の方々、なぜなら『クラシック音楽』が生き残るためには、新たな活力を注入する必要があります。そうしてこそ、過去の偉人に対して少しだけ頭を上げることができるかもしれません。最後にベートーヴェンをお聴かせして終わりにするのが一番いいと思います。皆さん、ありがとうございました。


あの感動が再び蘇る!二人の若き天才が火花を散らす熱狂必至のコンサート!


第868回サントリー定期シリーズ

2015年9月10日(木)18:30開演(19:00開場)
サントリーホール


指揮:アンドレア・バッティストーニ

ヴェルディ/歌劇『運命の力』序曲
ラフマニノフ(レスピーギ編)/5つの絵画的練習曲
ムソルグスキー(ラヴェル編)/展覧会の絵

第96回東京オペラシティ定期シリーズ

2015年9月11日(金)18:30開演(19:00開場)
東京オペラシティ コンサートホール


指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:反田 恭平*

ヴェルディ/歌劇『運命の力』序曲
ラフマニノフ/パガニーニの主題による狂詩曲 作品43*
ムソルグスキー(ラヴェル編)/展覧会の絵



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