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2014年4月9日(水)
節目で取り上げた曲たちをもう一度
三善晃先生の『オーケストラのためのノエシス』を今回、ブルッフやブラームスと共に4月のシリーズオープンにできることに因縁を感じます。私は不思議なことに東京フィルの節目節目を振らせていただいています。東京フィルを初めて指揮したのは1972年の第150回定期演奏会。現在では23歳の若手指揮者に大事な定期を振らせるなんてありえないことです。しかしそんな、何があっても成功させなくてはならないという状況で突っ込まれたからこそ皆が助けてくれ、それでいい関係が生まれたのが今でも続いているのでしょう。今回取り上げるブラームスの交響曲第1番は、私がこの150回定期で初めて東京フィルを振ったときの曲でもあります。そして、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番は私が東京フィルの常任指揮者に誘われるきっかけとなった、海野義雄さんとまわった九州での演奏旅行で取り上げた曲です。そして、第200回定期での初演に続き、400回、776回でも取り上げた『ノエシス』と、意識して選んだのではないのですが、不思議な力を感じますね。
三善晃と尾高家の関係
三善先生と私のご縁の始まりは、一世代前にさかのぼってお話ししなくてはなりません。三善さんが日響(現在のN響)で楽器運びのアルバイトをしていた若い頃、そこで指揮をしていたのが私の親父(尾高尚忠)だったのです。当時よく演奏会が行われていた日比谷公会堂は楽器を階段から搬入するのでものすごく大変でしたが、三善さんは楽器を運びながら、ずっと尊敬する指揮者の後ろ姿を見るのが好きだったそうです。するとあるとき指揮者が振り向いて、顔を見てくれた。三善さん曰く「おい、小僧! 一緒に来るか」と言われたような気がしたのだそうです。でもそのときは怖くてとても行けなかった、と。尾高家と三善晃さんとのつながりは実はその時点からあるのです。
その後、兄貴(尾高惇忠)が作曲を始めて、三善先生は兄貴の先生になります。先生の『交響三章』は圧倒的でした。なんてすごい先生だろう、東大を出てパリで学んで、どうしてこんな曲が書けるのだろう……と、その頃まだ親父とのエピソードなんて知らなかった私は、ずっとそう思っていました。そして、桐朋高校に入り、3年生の頃、作曲科の先生にピアノを習った方がいいと言われて三善先生に習うようになったのです。
三善先生のレッスンは毎回、「ハイ、今日は演奏会です、さあお弾きなさい」というような感じでした。指揮科は忙しく、めったに行けなかったのですが、行くと、まずお茶とお菓子を出してくださって四方山話をし、「それでは聴かせていただきます」と当然暗譜していると思って譜面を持って行ってしまう。私は「すみません。まだ初見状態です」。それでも一度弾き終わると「すばらしい! お茶にしましょう」と何も教えてくださらなかった。それでも無言のプレッシャーは大変なものでした。
釣り仲間として
三浦半島沖で大漁となった日のスナップ。左端が尾高忠明氏、 右端が三善晃氏(1974年5月定期演奏会プログラム冊子より)。 |
「三善晃は凄い男だ。曲を聴かなくても会っただけでわかる」。あるとき、私や兄貴の親代わりをしてくれていた伯父がこんなことを言いました。「でも健康状態はよくない。あんな状態では健康的な音楽は作れないから外に連れ出しなさい」。三善先生はご存じのように細い方で、特にお顔の色が青白かったのです。それ以来、私たちは三善先生を「外へ」連れ出すようになりました。最初はボウリングに行ったりしていたのですが、「日に当たらないとだめだ」という伯父の言葉である日、釣りに行くことになりました。伯父は釣りの名人だったのです。メンバーはホルンの千葉馨さんはじめ8人ぐらい音楽家ばかり。三浦半島の長井沖に船で出たら、信じられないぐらい釣れました。私と千葉さんは「14!」とか「15!」とか数えて争っていましたが、ハッと気が付くと三善先生の手がまったく動いていない。船の中の誰もが釣っているのに先生の手だけはじっと止まったままでした。「先生? 気持ち悪いですか」とお訊きすると「いえ」とまた静かにしていらっしゃる。その様子に皆だんだん静かになっていきました。私は隣にいたので「先生、すぐに岸ですから降りますか? 降りたら治りますよ」と言うと、先生はこうおっしゃったのです。「いえいえ、気持ちが悪くなんてありません……。感動しているのです。この広いお海の下に、本当にお魚さんたちが泳いでいて、それと今、私はつながっています」。びっくりしました。
先生が釣りにのめり込まれたのはそれからです。以来、釣りに出かけるたびに先生はいつも手作りのお弁当を持って来てくださって、その味もすばらしかったですね。
三善先生は私が結婚するときにお仲人も引き受けてくださいました。披露宴でのスピーチのために親族書をお渡しするとすぐにお電話があって「こんな親族書じゃだめです。名前だけじゃないですか。年齢、それぞれの経歴すべて書きなさい。全員の略歴がほしいし、できたら写真もほしい」とおっしゃるので、結婚前の忙しさのなか苦労してかなりのものを作ってお持ちしたのですが、いざ披露宴の仲人のスピーチになると、50分間、いろいろないいお話がありましたが、親族のことはかけらも出てこない。あとから先生にそう話すと「あれを内に秘めて喋ったのです」。先生はそういう方でした。
尾高&東京フィルを想定して作曲されたノエシス
1974年に東京フィルの常任指揮者になって、一番喜んでくださったのが三善先生でした。就任披露の定期演奏会は第168回、その次の節目である200回定期のときに私は先生に新しい作品をお願いしました。その頃は日本人に委嘱することがとても大事なこととして注目されていましたが、東京フィルは意外に少なかった。そこで「三善先生を」とお願いしたのです。楽譜をいただいて「東京フィルのことも、私のこともわかってこの曲はできている」、そう感じました。私たちを頭のなかで想定して、東京フィルがもっと大きなオーケストラになってほしいというメッセージもあります。三善先生は、いろいろなことをお考えになったそうですが、初演後に「忠ちゃんのことを考えて書いたんですよ」と言ってくださったのが大きな思い出です。
三善先生はあの時代にあって圧倒的に凄い作品を書いていますが無駄な音がありません。東京フィルでの初演以来、国内外のいろいろなオーケストラで演奏してきたなか、フランス国立リル管弦楽団でやったときは信じられないほどいい音がしました。ああ、やはり先生の作品にはフランスで培われた響きが宿っているのだと思いましたね。
三善先生が御病気をされてから、兄はよくお見舞いに行ったのですが、私は行けないままでした。そうしたなかで2011年4月に東京フィルと三善先生の『管弦楽のための協奏曲』を指揮したとき、今日は先生、来てくださらなかった、聴いてほしかったな、という思いがずっとありました。でも今回は天国で聴いてくださる、そう思っています。
©Martin Richardson | ©Tetsuro Takai |
尾高忠明『三善晃/オーケストラのためのノエシス』
第85回東京オペラシティ定期シリーズ
4月17日(木) 19:00開演
会場:東京オペラシティ コンサートホール
第846回オーチャード定期演奏会
4月20日(日) 15:00開演
会場:Bunkamuraオーチャードホール
(インタビュア・プロフィール)
にし・こういち/黛敏郎、團伊玖磨、芥川也寸志、松村禎三等、日本人作曲家のアーカイヴ活動を行う。執筆は「音楽現代」「音楽の友」「邦楽ジャーナル」「バンドジャーナル」他。各楽団・奏者へ企画提案も行う。日本作曲家専門レーベル・スリーシェルズ企画プロデューサー。