ホーム > インフォメーション > 10/9 東京オペラシティ定期 ミハイル・プレトニョフ指揮 歌劇『不死身のカッシェイ』聴きどころ ――最後に愛は勝つ

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2015年9月26日(土)




指揮者ミハイル・プレトニョフ
©上野隆文

 10月9日の東京オペラシティ定期に登場するオペラ『不死身のカッシェイ』は幻の名作と言われ、ロシアでも滅多に上演されない。その最大の理由はオペラの長さと内容にある。全曲通して75分という短さと抱き合わせ上演作品が無いこと、作曲者が舞台装置に至るまで細かく指定した厳しい上演条件、そして当時としては斬新な非調性音楽が上演を阻んでいるのである。オリジナルに厳格なプレトニョフは、上演条件が実現できないならせめて演奏会形式でこの音楽の素晴らしさを日本に紹介したいと、今回の公演に至った。貴重な音楽体験を満喫していただくために、以下、鑑賞のための解説をご一読頂きたい。


文・一柳 富美子(ロシア音楽学)


1. カッシェイって何だ?


イワン・ビリービン『マリヤ・モレヴナ』より
「王子たちを追う不死身のカッシェイ」原画
1901年制作 造幣局ミュージアム蔵

 “カッシェイ”とは ロシア語の固有名詞で、ロシア民話の定番悪役キャラクターである老人の名前だ。権威ある各種音楽事典やロシア音楽史の日本語表記は“カシチェイ”となっているが、これは、執筆者たちがロシア語発音の規則を知らずに日本語化したために生まれた誤表記で、ちょうど、Goetheと綴るドイツの文豪ゲーテがかつて“ギョエテ”などと仮名書きされていたのと全く同様である。もっとも、ロシア語はドイツ語ほど発音が複雑ではなく、耳で聞いたら一発で明快に分かるのに、日本のクラシック界にはこれまでロシア語の使い手が皆無でほとんど全ての情報が英仏独語文献を経由して輸入されていたので、どう発音されるのか知られていなかったのだ。本公演で漸く原語発音通りの日本語表記が採用され、カッシェイも草葉の蔭で喜んでいるのではないだろうか。
 さて、このカッシェイ爺さん、ストラヴィンスキー『火の鳥』でご存じの方もいらっしゃるだろう。民話の中では脇役的な立ち位置で、美しい乙女を喰らって永遠の生命を保つことから“不死身の”という枕詞が付くが、勧善懲悪がお決まりの民話においてはカッシェイ爺さんは最後に必ず退治される。従って“必ず滅びる不死身のカッシェイ”という奇妙なキャッチフレーズが成立する。本作品でも同様だが、民話と大きく異なるのはその死に方で、リムスキー=コルサコフ考案のカッシェイは、絶世の美女にして剣の達人でもある愛娘カッシェーヴナが涙を流したら絶命するというロマンティックな設定である。これはオペラ最大の見所でもある。


2. リムスキー=コルサコフとオペラ


リムスキー=コルサコフ(1844-1908)

 広大な大地を有するロシアは、都市化の遅れの恩恵もあって、今も昔も民話や民謡の宝庫である。オペラ界もコンサート界も9割以上が西ヨーロッパの音楽に占拠されていた19世紀後半、ロシアらしさを主張したいロシア人作曲家たちは、この豊穣な民謡・民話を音楽の素材として積極的に取り入れた。

 中でも、ロシアらしさを主張するという点でオペラの分野で最も成功したのが、リムスキー=コルサコフ(1844-1908)だった。日本では『シェヘラザード』をはじめとする幾つかのオーケストラ作品のみが有名で、“管弦楽の大家”という側面しか知られていないが、実はロシア語を伴うジャンル――歌曲とオペラ――においても、管弦楽に引けを取らぬ優れた才能を発揮した。彼は全部で15のオペラを書き上げたが、この数は19世紀後半以降の同一作曲家によるロシア語オペラの最多記録で、ロシアきってのオペラの達人なのである。しかも、ムソルグスキーやチャイコフスキーのように西欧文学を脚本原作にしたことは一度もなく、非ロシア題材の『モーツァルトとサリエリ』でさえ、ロシアの国民詩人プーシキンの原作をそのまま使用している。つまり、オペラという輸入ジャンルにおいて、徹頭徹尾、ロシアから離れなかった最初の作曲家なのである。 大変興味深いことに、この15のオペラのうちの12作が西欧音楽旋風が鎮まり始めた1890年代以降に書かれており、特に最晩年の1897~1907年に9作が集中し、亡くなる最後の10年は常にオペラを書いていたことになる。この9作の中には『モーツァルトとサリエリ』(1897)、『皇帝の花嫁』(1898)、『サルタン王物語』(1899-1900)、『見えざる都キーテジと乙女フェヴローニャの物語』(1903-05)、そして遺作となった『金鶏』(1906-07)が含まれており、リムスキー=コルサコフのオペラ美学の集大成だけでなく、19世紀ロシアオペラ遺産の精華と言える。


3. 作曲の経緯とその後

 『不死身のカッシェイ』(1901-02)もこの充実期の真っ直中に作曲された。「熊蜂の飛行」で有名な『サルタン王物語』の初演が成功裏に終わった1900年11月、若手音楽評論家のペトローフスキイ(1873-1918)が自作の台本「イヴァン・コロレーヴィチ(不死身のカッシェイ)」のオペラ化を提案してきた。リムスキー=コルサコフは大いに興味を持ったが、台本の牽引力が弱く、結局、ペトローフスキイとは決別して、彼自身が台本を完成させた。作曲は1901年6月~1902年3月。明るく清澄な歌劇『雪娘』(1880-81)を“春のお伽噺”という渾名で呼んだのとは対照的に、この鬱蒼としたオペラには“秋のお伽噺”という副題を付けた。1902年12月12日露歴(西暦では25日)にモスクワのソロドーヴニコフ劇場という小さな舞台で初演され、大成功を収めた。



リムスキー=コルサコフ『金鶏』スコアの表紙
(イヴァン・ビリービンのデザインによる)

 しかし、20世紀初頭のロシアは革命前夜の嵐が吹き荒れ、多様な解釈が可能なこの作品はリムスキー=コルサコフ自身の思惑とは無関係に、当時のロシア正教会独裁者だった実在人物とカッシェイとを結びつけて解釈する者たちが現れ、さらに1905年1月の「血の日曜日事件」の犠牲者を悼む作品として上演されて以降、専ら、反独裁の象徴としての側面しか顧みられなくなった。しかしリムスキー=コルサコフはこのような扱いを快く思わず、ならば本腰を入れて皇帝批判を音楽にしてやると『金鶏』を書いたほどだった。果たして『不死身のカッシェイ』が政治色満載のオペラなのか、皆さんご自身の目と耳で確かめて頂きたい。


4. あらすじ

 全1幕3場。
〔第1場〕遠い彼方のカッシェイ帝国。乙女の血を吸って不老不死の生命を維持している悪の帝王カッシェイ老人(テノール)のもとに美しい王女(ソプラノ)が囚われている。恋人のイヴァン王子(バリトン)に一目会いたいと懇願する王女に、カッシェイは未来も見通せる魔法の鏡を取り出すと、そこにはこちらへやって来る勇者とカッシェイの死が映し出されて慌てる。カッシェイは幽閉していた嵐の勇士(バス)を解き放ち、愛娘カッシェーヴナがしっかりと帝国の安全を守っているか確認してこいと命じる。カッシェイが自らの死の秘密を歌うカッシェイのアリオーゾは第1場の聴き所。
〔第2場〕父カッシェイの帝国に近づく勇者たちを、カッシェーヴナ(メゾ・ソプラノ)はその美しさで誘惑し、媚薬を飲ませて片っ端から惨殺してきた。勇者の血を吸ってきた愛する宝剣を掲げながら歌う「カッシェーヴナの歌」は本オペラ随一の名曲。王女を捜しにやってきたイヴァン王子は美しいアリエッタを歌った後、記憶を奪われてカッシェーヴナの虜になるが、カッシェーヴナも王子に心惹かれて殺せない。そこへ嵐の勇士が到着、冷たい風にあたって正気に戻った王子はカッシェーヴナから逃れて王女のもとへ急ぐ。
〔第3場〕再びカッシェイ帝国。冒頭、王女がこのオペラで2番目に有名な「子守唄」を歌いながらカッシェイを寝かしつけている。嵐の勇者と共に現れた王子を見て驚き、愛の二重唱となる。後を追って到着したカッシェーヴナは王女を逃がすから私と暮らそうと王子に迫る一方、眠りから覚めた父カッシェイには父の死をしっかり封印しろと怒鳴られる。王女は愛おしさと憐憫の情からカッシェーヴナの額に接吻すると、カッシェーヴナの中で奇跡が起こり生まれて初めて涙を流して泣き出す。カッシェーヴナは2人の幸せを願い、自らナキヤナギの樹に姿を変える。カッシェイはもがき苦しみながら絶命、王子と王女は解放されて、自由と春と愛を謳歌する合唱で幕。


5. 鑑賞のポイント

 まず、リムスキー=コルサコフの定番管弦楽とは全く異なる新しい響きに溢れた音楽に耳を傾けて欲しい。現実を語る時ははっきりした調性音楽で、非現実世界を描く時には半音階を多用するという、リムスキー=コルサコフの晩年の特質が明確に出始めた作品でもある。

 75分という驚くほど簡潔な音楽の中には、多くの示導動機が散りばめられ、全体を有機的に統一している。中には明らかにヴァーグナーやプッチーニを連想させるモティーフもある。また、3つの各場にはそれぞれ、独唱曲であるアリオーゾ、アリア、子守唄と、二重唱・三重唱・四重唱・合唱が用意してあり、その配置にも全く無駄がない。

 何より驚くのは、登場人物である。わずか5人しか登場しないのに全て異なる声種で、しかもそれぞれの性格付けが秀逸だ。人間の全ての悪業を一手に引き受けるカッシェイ、広い愛で全てを包み込む女性の理想像である王女、男の弱さも強さも併せ持ったイヴァン王子、魔女ではあるが最も人間的な魅力に溢れたカッシェーヴナ、そして困った時に民衆を助けてくれる八百万の神の代表としての嵐の勇者。中でも、民話にはないリムスキー=コルサコフ書き下ろしのキャラクターであるカッシェーヴナに、是非注目したい。テノールを悪役に、メゾ・ソプラノに最も美しい歌を配するところは、やはりイタリア・オペラを意識したのだろうか。

 このプロダクションは日本に先行して9月7日にモスクワでも上演される。ロシアで最も尊敬されている現役音楽家プレトニョフの企画というだけで、ロシアでは大変な話題である。日本の聴衆にも知られざる名曲を当代随一の才人のタクトで堪能して頂きたい。


左からミハイル・グブスキー、クセーニャ・ヴャズニコヴァ、アナスタシア・モスクヴィナ、ボリス・デャコフ、大塚博章



一柳 富美子(ひとつやなぎ・ふみこ)/ロシア音楽学


東京芸術大学講師。ロシア音楽研究の第一人者。ロシアオペラ・声楽・ピアニズムに特に造詣が深い。ロシア音楽研究会主宰。ロシアン・ピアノ・スクールin東京総合監修。研究・執筆、声楽指導、音楽通訳・翻訳・字幕を手掛け、邦訳した大曲だけでも50を超える。




10月9日[金]19:00開演(18:30開場)
東京オペラシティコンサートホール


指揮 : ミハイル・プレトニョフ

カッシェイ(テノール): ミハイル・グブスキー
カッシェイの娘(メゾ・ソプラノ): クセーニャ・ヴャズニコヴァ
美しい王女(ソプラノ): アナスタシア・モスクヴィナ
イヴァン王子〈バリトン〉: ボリス・デャコフ
嵐の勇士(バス): 大塚博章
合唱:新国立劇場合唱団

リムスキー=コルサコフ/歌劇『不死身のカッシェイ』
            <演奏会形式/ロシア語上演/字幕付>

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